久しぶりの恋人、新鮮な感慨

先日、ちょっと煮詰まり気味だったときに、気分転換になるかもと思ってガムを噛んでみた。ロッテのクールミントガム。100円。8枚くらい入ってたと思う。気分転換と思ったというのはウソで、噛むと頭が良くなるみたいな話にすがるような気持ちだった。煮詰まりから脱出できるならガムは安い(事情はどうあれ、そもそもガムは安い)。

煮詰まりの大きな原因は何とかクリアしたが、ガムのおかげというわけでもない。少しは助けてもらったかもしれない。苦労は喉もと過ぎて忘れてしまい、反省しないからまた煮詰まる。煮詰まることなく生きたいとは思っているが、かなわないまま終わるのだろう。

その後にオフィスでコーヒーを入れる時間はないけど何かリフレッシュメントが欲しくなった。で、そういえばガムだよ、と。時間がないからコンビニには行くのは現実的ではないけど、そうだオフィスグリコがあるじゃん。

ロッテのガムがオフィスグリコにあるわけもなく。もしかしたらあるのかもだけど、細かく探す気にはならず。とりあえず昼休みまで乗り切った。乗り切る、というのはいささか大げさ。ガムがあったらいいのにな、と少しだけ思っておしまい。

ガムをサクッと手配できない自分、ガムに不慣れな自分が面白かった。ガムは学生のころとかにはよく噛んでいたけれど、もう20年くらいはすっかりガム離れ。それゆえ、ガムを噛みたいと思ったときに複数のポイントで自分がガムを噛むという行為に不慣れである状態を実感できる。これが存外に楽しい。

普通なら不慣れであるということは不便なことで、不便である故に困ることは多い。というか、不便とか不慣れはできればない方がよいことだ。でも、深刻な問題につながらないなら、不慣れは発見に満ちている。どうして不慣れなのか、不慣れだと何がおきて、慣れてる人はどうするのか。そんなことを考えるのは不思議な新鮮さがある。

当面はガムを切らさないように何かしらの手立てをしたり、ちょっとガムを噛みたくなったときにこうするとよい、みたいなTipsを見つけて喜んだり。そんなことは考えるけれど、実際には何もせず噛みたいときにガムがないのを繰り返して再びガムから離れるんじゃないか。

お口の恋人さんとの久しぶりの再会は、煮詰まりからの脱出に役立ったかどうかはともかく、小さいけれど意外な新鮮さを味わわせてくれた。こう書くとちょっといいことがあったような気になって得した気分。

5分書く、と、5分で書く

岡田斗志夫の「5分間のタイマーを回して文章を書いてみよう」みたいな記事を昔読んで、何度か試してみたことがある。Chromeのタイマーはこういうときに役に立つ。思いついたことを次々とタイプする。思いもよらないことが書き出されている。案外気持ちいい。

人に見せる文章はできない。見せてもよいかもしれない。Web日記はそういう文章がいいんじゃないかと思う。読むときも、自然に流れ出した文章の方が、狙いすました文章より心地よかったりする。狙っているという気持ちが見え隠れするのは複雑な心象を与える。

でも、やっぱり狙った文章をきちんと書いてみたい。見せてみたい。かといって、それに時間をどんとかけるのはなかなか難しい。だから5分で書く。思いのままに5分書いて、時間がきたらやめるのではなくて、5分で読ませる文章を書く。できるのか。

何が言いたいかをきちんと考えて着地させる文章。できればそれに越したことはない。そうなのか。狙いがある文章。狙いがあるかもしれないと読み手が勘ぐってしまう文章。

それをすべて悪いとは思わないが、そうじゃない文章の気持ちよさは確実にある。他人のWeb日記を読む心地よさはそこにあるんじゃないか。心地よさ、が言いすぎだとしても、ついつい読んでしまう背景には、何かしらひきつけるものがあるんだろう。

間をとって、という結論が見苦しいのは承知の上で、言いたいことを5分で書く、と、5分間書いてみる、の間にある人に見せられる文章。そういうものを書いて、人が見えるところに置いてみる。

凡庸な締めで申し訳ないですが、この文章がそういう文章です。5分では書き終えられず、軽い見直し(推敲とは言えない)を含めて10分くらいで完成させました。

気遣って奥へ進む、手前にいる理由を気遣う(満員電車で)

満員電車で入り口付近にとどまっている人が気遣いに欠けていることもあると思う。割合でいえば、そういう人が多いんだろう。でも、何かしらの理由で手前にとどまっている人もいて、本当は自分以外が奥に進めるようにしたいと思っているけれど、それができずにいるのを尊重してもいいんじゃないか。

困るのは3人が入るには狭すぎる車輌。京王線がそうだ。都営新宿線なら3人が入れる広さなのだけれど、相互乗り入れしている京王線の車輌に乗ると通路が少し狭くて、既に2人いる通路に割って入るのはちょっと躊躇する。特に女性とくっついちゃいそうなときとか、ちょっとボリュームのある方がいらっしゃったり、バッグの大きい人、ポニーテールの人、フードの人、少し後ろ目に立つ人、などなど。

そんな状態のままドアとドアの間ぐらいのところに立っていると「通路に2人しかいないんだから、おまえ奥へ進めよ」というオーラを出してぐいぐい押してくる人がいる。舌打ちされたり、下手すると声に出して言われたり。ヒジでぐりぐりする人もいる。困る。少し立ち位置をかえて「アナタが奥へどうぞ」とテレパシーを送ってみたりして。

満員電車では奥へ進んだ方が合理的。そういう考え方は分かるし、基本的には賛成。でも、奥へ進まない人を即アウトとしてしまう考え方はちょっと困る。似たようなことはエスカレータを塞ぐ位置に立ってるときにも感じる。エスカレータの片側をあけるのは賛成。でも、あけないからって事情を問わずに怒られるのはちょっと納得いかない。あと、7人がけの長椅子に6人しか座ってないからって、明らかに隙間が足りてないのに無理矢理座ってくる人もそう。

親切で奥へ進む。それによって満員電車の苦労がちょっとだけやわらいで、あぁ、よかった。奥へ進まない。ちょっと残念だけど、色々事情はあるよね。次はいいことがありますように。そんな感じになるといい。甘いのかな。

2013年、観逃しではないが、縁があれば観たい映画

キャリー / グランド・イリュージョン / 清洲会議 / ウォールフラワー / マラヴィータ / 愛、アムール / 東京家族 / るろうに剣心 / レッド・ライト / ビトレイヤー / 舟を編む / フッテージ / 藁の盾 / つやのよる / さよならドビュッシー / オブリビオン / ポゼッション / ヘンゼル&グレーテル / レッド・ドーン / トランス / ランナウェイ / 風立ちぬ / ローン・レンジャー / サイド・バイ・サイド / 終戦のエンペラー / モンスター・ユニバーシティ / 死霊のはらわた / ロンドンゾンビ紀行 / 草原の椅子 / 映画と恋とウディ・アレン / コック・ファイター / ジャッジ・ドレッド / 映画監督ジョニー・トー香港ノワールに生きて / レッド・リターンズ

(追記)デッドマン・ダウン / コンティキ

劇場で上映されているときに積極的に観ようとまでは思っていなかったが、時間が合えば観ても良いと思っていた映画たち。今後、たまたま劇場で観られるとか、iTunesなり、Amazonなり、Huluなりで観られればよし、引き続き観ないまま終わってもそれほど悔しくない、というくらいの力加減。

オンリー・ラヴァーズ・スティル・アライヴ

以下、多分ネタバレはないけど、表題の映画の話。

アイドル映画としてかなり高いレベルで堪能した。なるほど、映画にはこんな楽しみ方があったのだな。こういう経験は50年近く生きてきて初めてのことだと思う。まだまだ知らない面白はあるね。おめでとう、自分。

ティルダ・スウィントン、非常によい。半開きの口、しわくちゃの手、あんまり種類のない表情。そういうのも全部ひっくるめて観てていい気分。飛行機のチケットを僕も取ってもらいたい。

恐竜家族の吹き替え版が観たい

huluにNHKの番組が追加されるというメールが来た。そういえばNHKオンデマンドもあった。DVD(とかBluRayとか)がなかなか出ない「恐竜家族」はネットで観られる(というか聴ける)ようになるかもしれない。

というか観られるようにしてください。お願いします。

一応、かなりのエピソード(もしかすると全話?)をVHSで録画はしてあるけれど、面倒くさくてついつい観ないし、デジタル化もしていない。リージョン1のDVDを入手しようかとも思ったけれど、絵よりも声がキモなので(特に穂積隆信)見送り中。

英語版の音声だと盛り上がりに欠けるのはシンプソンズと同じで、もう吹き替え版がアタマのなかに染み付いてしまった感じ。

遠慮せずに雑誌を捨てる

雑誌をあまり買わなくなってからずいぶん経つ。買わないから読まない。読まないから買わない。ネット上のコンテンツは無料で、それを読んでいると雑誌を読む時間がなくなる。

雑誌を読むためのお金を使わなくなる。お金が減らないのもいいことだし、「あぁ、お金があったらいいのに」と思わなくてすむのもありがたい。雑誌をしまうとか捨てるとかの心配も要らなくなる。

さらに、紙を使わないことに何となく達成感のようなものがある。ペーパーレス。森を守ったぜ、とまでは言わないけれど、紙を使わずにすませたことがいいことで、紙を使わずにできたことのために紙を使ったことで何となく後ろめたく思うような。

この、何となくの後ろめたさで失われるものをあまり小さく評価してはいけないのではないか。ふと、そんなことを考えた。500円とかの雑誌にパラパラっと目をとおして得られる何か。ちょっとした時間に雑誌の記事を読んで、または読み返して得られる何か。

支払うお金がそれに見合うものであるかどうかは(自分のお小遣いの残り金額とあわせて)常々考える必要があるとは思う。でも、紙がもったいない、というだけの理由で「何か」を得る機会を失うのは紙以上にもったいないことなんじゃないか。

気になったものはお小遣いの範囲で買って、眺めるなり読むなり読み返すなりして、部屋が過剰に散らからないよう注意して、必要ならスキャンして自分で(これ重要)捨てる。捨てることを遠慮しない。できるなら保管しておきたいけれど、部屋に置いておけるものの量はあまりに少ない。

雑誌は安くないし、買ってみたら読むとこなくてガッカリだったりもするし、お金は使わずに済ませられるならそれに越したことはないしで、タガを外しちゃうのは怖いんだけれど、雑誌を買わないという気持ちを少し和らげてみようかと思っている。