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ゼロ・グラビティの太ももについて考える

以下、映画「ゼロ・グラビティ」のネタバレあり。

高純度のSF冒険映画。超人になるとか、コンピュータと戦うとか、宇宙旅行は退屈だとか、舞台は宇宙だけど西部劇だとか、実は密室モンスター映画だとか、親子についての話だとか、そういうのではなく、宇宙での困難「だけ」に立ち向かう話。困難はすべて宇宙固有のもので「あー、これって地球におけるアレのメタファーだね」みたいなのはない。
過去のSFの名作たちにSFじゃない何か、SF純度を下げる不純物が含まれていたとして、それには理由があったのだろう。純粋なSFを受け入れない観客へのエクスキューズだったり、予算や技術の都合でSFじゃないものを入れざるを得なかったり。
既成のクラシック曲を使ったり、壮大なオーケストラ音楽を使ったりするのは、SF然とした描写の裏を狙った手法だったりしたのかもしれない。
こう書きながら「ゼロ・グラビティ」に描かれる世界はSFではないことに今さら気づいた。
フィクションではあるけれど、サイエンスなフィクションじゃなくて、普通の刑事ドラマとかと同じ意味でのフィクション。科学空想ではない。そのことに今まで気づかなかった。そういう世の中を生きているんだった。
で、映画としてなかなか面白かった。
とりわけ、消火器を投げるところにはしびれた。こんなおいしいところを何の説明もなく淡々と描く作者のストイックさ。もしかしたら、同じような要素が他にもあるのに僕が気づいていないだけかもしれない。やっぱりもう1回観にいくか。
そんなすてきな映画ではあるものの、サンドラ・ブロックが宇宙服を脱衣したときのワシャワシャどう位置づけるべきなのかという困惑も残る。
「エイリアン」におけるシガニー・ウィーバーの脱衣と似た状況と言えなくもないが、「エイリアン」はカントクのエロ趣味から来ているのに対して「ゼログラ」は女優の自己顕示欲が源にありそうな気がする。
宇宙服を脱いだブロック氏の太腿や短めの髪に心乱れた自分が何とも後ろめたい。
出演者が無名の役者さんだったら、より穏やかに心乱すことができたのだろうけれど、やっぱり演技力的にだったり、出資者集め的にだったりが難しかったりするんだろうか。